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神山先生について
芙峰画会会長 日韓美術交流会名誉会長
世界平和文化財団副会長 日本文化振興会顧問
国際美術院名誉顧問
私が美大を卒業して1年横浜にいた頃・・・もちろんバイト的な働きもなく、東京よりも人情味があって第2の故郷と喜んで生活していた頃・・・「神奈川県展 公募」のポスターを見て、出品料が5000円だったのでそのお金もなく、・・・友人が出してくれるというのでそして画材は彼女の働いていた材木店よりベニア板2枚ただ同然のような形でいただき、油絵の具を買うお金がないので少し手元にあったクレパスを蝋で溶かして色を作り・・・今から思うとこんな発想、よくしたものとそれと作業中火にとっても怖かったが・・・大事に至らなくて本当によかったと思う。2点、「横たわる裸婦」朝・夕を出品。初入選で確か「佳作賞」をいただき授賞式には後で聞いた話が審査員の間で「この作者知ってるかい?・・何者だ?・・知らない?との話題の中に山男のような巨大な男が現れると皆さん思っていたら41キロの体重(昔は若いから出なく痩せてて惨めで今の太った状態は・・糖尿の性である)の女の子が赤シャツに白ズボンで賞状もらいに出たので「君、代理の人?」と聞かれ「本人です」と答えたらやんやのかつせいですっかり可愛がられたものでした。というものの、ベニア板2枚といっても1枚が畳1畳程ありそれが2点飾られたのだから細長の部屋の正面私の絵だけで埋めたわけでそれは目立ち、低い鼻もその時だけは高くなりこれが画壇の私の本当のスタートでした。そうした思い出の中、神山先生は、小柄で、人のよい温厚なお人柄で日本画の方はみなこうなのかしら?と思っていましたが・・・他の先生方はお亡くなり・・・1番長く交流したのが神山先生でした。
横浜三越でのグループ展・新宿、また、韓国にまで出かけられあの小さなお体の中にどんな情熱が秘められているのかと私を圧倒するばかりの行動振りが数年前、銀座でのこれが最後になりましたが個展の時少しの階段が「辛い」とはじめてこぼされました。
その後、この「芸術公論」が私の手元に贈られてきて、先生のお喜びのご様子が伺われてましたが・・・今平成13年に先生がお亡くなりになった今出版社にも許可を得ましたのでそのページをここに掲載することによって先生のご冥福をお祈りいたしたく存じます。
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